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2003年1月17日 教育学特論1 後期課題
日本の教育改革の視点やその方策
2003年1月17日 教育学特論1 後期課題
日本の教育改革の視点やその方策
1.課題の設定
近年、日本では教育改革が叫ばれている。生涯学習・学習社会の到来や、学校教育制度の合理化・効率化、子どもの逸脱行動に対する学校教育への批判などを受けて、教育改革が議題にあがっている。一般人の理解において、「教育=学校教育」という意識が強くあり、学校教育制度を中心とした改革が進められている。しかし、教育の根本的なところを丁寧に議論してゆかなければ表面的な改革に終始する恐れがある。それには、学校教育に限られることなく、広く人間の生涯を時間的・空間的に見てゆく生涯教育が、個人の発展的継続的な学びや自己実現などを支えることにとって必要となってくる。このような生涯教育を通して、日本の教育改革の視点やその方策について探り出す試みをしてみたい。
2−1.生涯教育の展開
生涯教育は、ポール・ラングランが1965年に生涯教育論として展開したことに始まり、現在においても、生涯教育の原点を考える上で必要になってくるといえる。
1)教育概念の抜本的な転換
ラングランは、人間の生涯は、若者とおとなの二つの部分に分けて考えてきたとする伝統的な見解に基づいて教育の基本目標を立ててきたとする(1)。そのため、おとなになるための準備教育として、教育の目的は、「やがておとなになる人々のために将来の人生において果たすことを要求されるであろう種々の役割に必要な資質能力を与えること(2)」であった。「その結果として、教育制度は全体として、生徒にあらゆる種類の事実をつめこむように制定され、生徒たちは、満足な生活を送るために、この蓄積された資本をできるだけうまくひきだすことを期待された(3)」としている。
しかし、これに反して、「人間がもしも生涯を通じて学習したり自己教育を続けたりすることができるだけでなく、そうすべきであるとするならば、子どものときにその頭脳に過量な負担をかける理由はなくなってくる。このように考えてみると、学校の役割は完全に変化する(4)」とした。特に基礎教育については、自己を表現し、他の人との意思の疎通ができるようになるだけの手段を提供すべきであるとした。その力点として、「言語を使いこなすこと、集中力や観察力を発展させること、また、どこでどうすれば必要な情報がえられるかを知ること、そしてさらに、他の人とともに協働できる能力を獲得することなどにおかれるべきである(5)」とし、「幅広く活気に満ちた成人教育制度が、第一に大学で、ついで中等教育や初等教育で、さらにそれらをこえて、家庭や地域社会にも強い影響をあたえるようになるであろう(6)」とした。
さらに、「すべての教育者、なかでも成人教育にたずさわっている人たちは、生活のあらゆる段階において現代人に要求されているさまざまなかたちの教育と訓練とを、徹底的に大改造しなければならない(7)」としている。「人間の生涯は、どの段階においても充実して過ごされるべきであり、また、一連の新しい体験を通じてしだいに自分自身を知るためにも、それぞれの段階の経験と楽しみと満足とに、何ほどかのものが付け加えられるべきである(8)」としている。こうしたラングランの考え方が根底にあって、生涯教育論は進められてゆく。
(1)2002年10月4日 教育学特論V 講義レジュメ参考
(2)〜(8)2002年10月4日 教育学特論V 講義レジュメ引用
2)生涯教育体制の特色
生涯教育体制の特色として、ラングランは@教育には年齢制限がないこと、A失敗とか成功といった考え方がその意味を失ってしまうこと、の二点を挙げている(1)。
@に関して、「教育というものは、生活のしかたそのものであり、むしろ、社会で起こっていることを知るための方法である(2)」とし、生涯教育ということによって追求されている目標とは、「ひとりひとりの人が、自分のまわりの社会の動きに気をくばり、その流れの中にみずからを入り込ませるようにさせることである(3)」としている。
Aに関して、成功した人がそうでない人と切り離され、特別扱いをされていることに鑑み、「もしも適切な機構が確立されることによって、ひとりひとりの人が継続的に教育の過程に入りこみ、常に何か新しいものを学習していくようになれば、一時の失敗が後にまで尾を引くような絶対的なものではなくなる(4)」としている。
学校において問題視されるのは、「その子が、善い生徒あるか悪い生徒であるか」ということであるが、実際は、「ひとりひとりの人間が、その生涯をかけて、自分自身の知識を獲得しながら生きている(5)」としている。「生涯の連続的な各段階において、あれこれと試行錯誤をしながら、他の人とのかかわりの中で、また自分自身との対話の中で、自分の独自性をあらわしてゆくもの(6)」と述べている。
こうした特色は、われわれが教育に抱いていた考え方を変えるために十分に貢献する。日本においては学歴社会に対する一般人の認識に対して、抜本的な意識改革を迫るものである。学歴社会に対する批判に答える考え方なのかもしれない。
(1)2002年10月4日 教育学特論1 講義レジュメ参考
(2)〜(6)2002年10月4日 教育学特論1 講義レジュメ引用
2−2.生涯学習と生涯教育との交錯
1973年OECDはリカレント教育についての報告(Recurrent Education: A Strategy for Lifelong Learning)を出している。その中で、教育と学習との差異と、これらの交錯について述べている。生涯学習と生涯教育と考える上での重要論点として触れたい。
そもそも「学習」は「教育」と同義ではないことを指摘している。「学習は生物有機体の生存と進化に必要な、本質的な特徴である。人間はあらゆる状況で学習する。―中略―
人間が具体的な状況から一般的な要素を抽出し、それを表すシンボルを創作し、他の状況へ適用可能にし、他の人間に伝達可能にすることを行うあらゆる場面で学習はなされている(1)」としている。そして、生涯学習は特定の場面や環境に影響されない学習であり、そうした学びを通して学習に適応性を持たせることが必要になり、これに関連して生涯教育の必要性が高まる。
教育については「組織化され構造化された学習(2)」としている。多くの教育は意図的に作られた場面に限定されているとしている。
そして、教育は「学習のための組織化された場を提供し、生徒が新しい知識を獲得して、組織化されない学習場面で吸収した事実と経験を、一般的な視野に置いて考えることを援助する(3)」。「主に技術の発展により、現代社会が複雑さを増してきているため、偶発的で非公式的な生涯学習に、より組織化された意図的な教育の機会を交錯させる必要は急激に増大しつつある(4)」としている。
リカレント教育の是非はともかく、リカレント教育の概念は「学習」と「教育」を関連付けている。それは、「生涯にわたって不断に新しい知識や経験を吸収し、新しい状況にその都度適応することに役立て、また人々が自分の運命自分で司る能力を高めることが必要(5)」であるからである。
これらこのことについて、生涯学習と生涯教育を見つめてゆく上で、ひとつの有用な手段であると思われるため、ここで触れることにした。教育改革は生涯教育へとつながるはずである。それは、人がさまざまな場面で吸収した事実と経験(生涯学習)を、流動性のある時代の中で生涯教育を通して、これらをまとめなおしたり、異なる考え方と照らし合わせたり、捉えなおししながら、自らの成長の糧とすることにつながるからである。教育改革は非公式的な生活場面をも考慮しながら、学校のみならず人間の生涯にわたる学びを支える役割を担うのかもしれない。
(1)2002年10月18日 教育学特論1 講義レジュメ引用
(2)〜(5)同上
3.教育改革の視点とその方策
学校教育に限られることなく、広く人間の生涯を時間的・空間的に見てゆくこと生涯教育は、個人の発展的継続的な学びや自己実現などにとって大きな支えとなる。しかし、広く一般人の理解において、「教育=学校教育」という意識が強くあり、学校教育制度を中心とした改革が進められている。教育改革の流れを踏まえた上で主要な改革論点を少し見てゆきたい。
(1)教育改革の流れ
教育改革は、しばしば学校教育制度の改革として呼ばれることがある。この点に関していえば、狭義の教育改革を意味している。しかし、学校教育制度は、教育行政や教員養成、教科書、入学者選抜などのさまざまな制度の複合体として存立し、運営されていることから、学校体系だけで成り立っていない。
近年では、教育内容や方法、学校運営などのミクロ的な変革まで、教育改革に含める場合も多い。教育改革が単に、学校教育制度のみならず、学校教育全体にわたって課題とされるようになったことは、現代の学校教育が危機に直面し、大きな転換点となっているといえる。
1970年代には、脱産業社会への移行に見合った学校制度改革に主題が移り、さらに80年代に入るころから、いわゆる「教育荒廃」が新しい深刻な問題としてこれに加わり、教育改革の必要性が叫ばれた。学校教育は、産業社会の主要な制度のひとつとして、役割を果たしてきたが、「教育荒廃」として一括される問題群は、この弊害として現れた。
臨時教育審議会(1984~1986)答申では、学校教育のみならず、学校外の教育の場を含めた教育全体、人々の生涯にわたる教育と学習全体の再編成を求めている。生涯学習や学習社会の到来は、教育改革の新しい方向性を示している。問われているのは、近代産業社会が生み出し、つくりあげてきた近代学校制度そのものと思われる。
国家によりシステムとして統合され、運営されている学校教育制度は、常に合理化・効率化が求められながら発展してきた。教育改革は、学校教育体系を中心として諸制度が大きく広がりを見せると、教育のヒト・モノ・カネ・時間などの社会資源を、いかに合理的・効率的に配分するかが問題となった。この合理化・効率化は経済界からの要請にこたえる形で、教育改革を進めるインセンティブともなってきた。高度経済成長期には、科学技術発展のための人材の必要性から、人材養成を媒介とした教育界と経済界の関連付けや行動計画が問題となった。
学校での教育には、社会的な統合のための社会的機能が強く期待されている側面がある。非行や犯罪等の逸脱行動が増加すれば、学校教育が原因として問題視され、教育改革の要求につながる場合も少なくない。臨時教育審議会(1984~1986)が、「教育荒廃」として、学歴社会、試験地獄、偏差値体制などの問題と、社会問題化していた家庭内暴力や校内暴力、いじめ、不登校、高校中退などの問題を取り上げていることからもわかる。
教育改革は、産業社会の学校制度の発展を支えてきた基本的な価値を問い直し、また、産業社会における学校教育の位置そのものを問い直すことを求められている。そうした中で生涯教育の視点は学校教育だけにとらわれずに、広く生涯にわたって自らの学びを支えることができる。教育改革に必要な視点である。
(2)教育改革の論点と改善点
現在の教育改革は、先に触れたように、学校制度改革と関連諸制度の見直しが大半を占めている。しかし、生涯教育の考え方がなければ誤った処方箋を出してしまう恐れがある。以下に、主な論点とその改善点を検討する試みをしたい。
第一に、学校教育中心の改革を見直すべきである。一般人の理解において、「教育=学校教育」という意識が強くあるため、学校教育制度を中心とした教育改革が進められている。しかし、教育の根本的なところを丁寧に議論してゆかなければ表面的な改革に終始する恐れがある。それには、学校教育に限られていては教育の改革が不可能になると思われる。広く人間の生涯を時間的・空間的に見てゆく生涯教育が、個人の発展的継続的な学びや自己実現などを支えることにとって必要となってくる。また、学校では一方的な授業が多数を占めていて、かつ一定の時間に一定の学習が行われている。生涯教育の視点にたって捉えなおすと、時間という枠をいかにはずしていくかが検討課題になる。すべての時間枠をはずすことは必要ではないが、弾力的な運用があってもよいと思われる。
これは、学校のみならず、社会人にとっても通用することでもある。社会で事実や経験を、多彩な教育の場で整理したり、確認したり、検討したり、知識を補充したりできる教育環境の整備も待たれる。そういった制度づくりが求められる。
第二に、課題提起型教育を取り入れることを検討したい。これは、パウロ・フレイレが提唱したものであるが、近年では、特に学校教育において誤った運用が見られる。端的にいうと、課題提起型教育とは、教師が生徒に対し課題を提起しそれに基づく解決を子どもが図り、その過程で両者の対話を重視しながらすすめる教育のことである。しかし、教師が課題を提起しただけで、子どもの作業を見つめているだけという教師が存在している。さらには、教師と子どもが完全に「平等」とされ、教師が一切子どものやることに口出しをしない場合も存在している。教師は子どもとの対話において教育に寄与するのであるが、対話においてのみ教師と生徒は「平等」なものであり、解決に必要な言葉や課題を考える前提としての一般的な知識の定着は、ある程度は銀行型教育に頼らざるをえない。課題提起型教育と銀行型教育とのバランスが必要となるだろう。
第三に、現在語られている上での教育改革の必要性はあるのか、である。イメージ論で教育改革の必要性は語っていないだろうか。
たとえば、過度の受験戦争が問題であり、ゆとり教育への改革が必要であるという文脈で学歴社会が批判され、教育改革を求める声の原動力になっていることが多い。
苅谷剛彦氏はその研究の中で、1950年代から1960年代のいわゆる「受験戦争の時代」、「灰色の受験生活」の時代は、実は灰色でもなんでもなく、一般的な受験生は案外に穏当であったと分析している(1)。一部の人々の問題に過ぎなかった受験戦争が年をおってゆくにつれ、受験戦争が一般大衆化し、この受験戦争が多くの人々の関心を集めるようになることで、問題の深刻さよりも、問題が関心を集め、その広がりによって、「過度の受験戦争」を問題視する視線が強められていったと考えられるという。「受験戦争→詰め込み教育(役立たない知識の暗記だけの勉強)→点数による子どもの一面的な評価→成績による序列化や受験によるストレス→教育問題の発生、といった私たちにはなじみのある教育認識がつくられていった(2)」としている。
以上は一つの例ではあるが、誤った現状認識における過度の受験戦争というイメージ論によって、学歴社会に批判が浴びせられ教育改革が進められていることが多い。しかし、さらに心配なのは、このことを前提とした教育改革におけるあやまった処方箋の提示のほうが、社会における影響は大きくなることである。現に、第一五期中教審「二一世紀を展望したわが国の教育のあり方について」第一次答申「子供たちの生活の現状」のタイトルのもとに、「ゆとりのない生活」として「過度の受験競争」という認識があり、受験競争→ゆとりの欠如、「自ら学び、自ら考える力」=「生きる力」ということがゆとり教育の処方箋とされた(3)。こうして出される処方箋に対し、文部科学省は、ゆとり教育から国際競争力を高めるための学力向上政策へと転換してしまった。だれにゆとりがないのか、そしてどうしてゆとりがないのか、という事実をもうすこし丁寧に検討してゆく必要があると思われる。
(1)苅谷剛彦『教育改革の幻想』(2002年・筑摩書房)86頁〜136頁参考
(2)同上 118頁引用
(3)同上 45頁参考
4.結論としていえそうなこと
教育内容の削減は「全員が百点」をめざすため、基礎力徹底のための教育内容の削減、「自分で学びたい」という学習意欲を高めることを目指す「総合的な学習の時間」の導入など、九十八年改訂の学習指導要領のねらいも、たんに教える分量を減らすことで、学校五日制に対応しようとしただけではない。より積極的に、子どもたちの学習意欲に切り込もうとする試みを含んでいる。「生きる力」という「新しい学力観」に先導されてきた教育のさらなる推進をめざしている。そのための具体的な手段として、「総合的な学習の時間」が導入された。
現在の教育改革は、学校制度をいかに変えてゆくかが話題の中心となっている。戦後の教育は、結果的にさまざまな役割を学校に期待してきた。そして、「全人的」な教育を目指すことが学校の機能肥大を引き起こしてきた。こうしたことを受けて、学校の定義づける偏差値をはじめとする「学力」に、広く一般人は信用を覚えた。しかし、改革では、肥大化した学校制度をスリム化しようという流れに逆行するように、真に煮詰まっていないままの「生きる力」という教育観に基づいた数多くの役割を学校に課そうとしている。
家族や地域社会とは異なり、学校は税金によって運営・支援される、社会のなかの公共制度である。学校が他の機関よりも求められるのは、人々が日ごろ経験したり習得したりした学習を、より組織化された意図的な教育の機会を提供するという、人が社会生活をよりよく「生きる」ための「力」としての役割なのかもしれない。教育は、「学習のための組織化された場を提供し、生徒が新しい知識を獲得して、組織化されない学習場面で吸収した事実と経験を、一般的な視野に置いて考えることを援助する(1)」という、社会に対する公共サービスといった発想の転換を含めた、生涯学習・生涯教育に対応した教育改革が求められる。もし、学校がこのような位置づけになるならば、学歴は、生涯教育をスタートする際の参考資料という位置づけになるのかもしれない。どの段階から学びがスタートできるのか、というひとつの指標になるのかもしれない。学校がある意味ではさまざまな形態に変化し、また、学校以外の学びの場が増えることで、ある一定の「学力」という価値を持った種類の学校が肥大化することが防げるかもしれない。
知識がなければ自己実現のための深い学びへとつなげることはできない。学びを支える際に必要なのは、自らの経験とそれを捉えなおす知識なのかもしれない。そのことに寄与するのは、生涯教育を視野に入れた教育改革なのかもしれない。
(1)2002年10月18日 教育学特論1 講義レジュメ引用
以上
参考文献
苅谷剛彦『教育改革の幻想』(2002年・筑摩書房)
苅谷剛彦他『教育の社会学』(2000年・有斐閣)
苅谷剛彦『大衆教育社会のゆくえ』(1995年・中央公論社)
教育学特論1 講義レジュメ
参考HP
http://www.mext.go.jp/
http://wwwsoc.nii.ac.jp/jces/rice/
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